「こういうこと」を当然と考えること

起こった「こういうこと」について説明する。
今、なんの気なしに雑誌「Newton」を読みながら、甲野善紀のDVDを見ていた。今月の「Newton」は、次元についての特集。本日、近道として寄った本屋で見かけ購入。
DVDはAmazonでおとといくらいに購入し、今日届いた。


集中力がないため、DVDをちょこちょこ止めながら、リビングへふらふらしては部屋に戻り再生し、雑誌も少しずつ読んでいた。紙面ではちょうど、アインシュタイン特殊相対性理論の説明。そこでDVDでの甲野氏が自分の運命について語っており、「アインシュタインは光を波であり、粒子であると考えた」とな。


僕の身体がそうなることをあらかじめ知っており、調整していたのだ。いや、雑誌の内容、DVDの内容は始めて見たわけだから、詳細を知っており調節したわけではない。


こういうこと/が起こる/を起こす/私を、私は信じている。

今日も感謝

自分に利益がないという理由で、平気で会話、質問を断絶、無視する人がいる。僕は、こういった対応をされることを当たり前だと思っている。もちろん僕は、そんなことはできるだけしたくない。
なので、こちらの疑問にたいしたメリットもないのに答えてくれる人に対して、感謝を禁じえない。
おおげさかしら。

傘についてちょっと

ムロン、大雨の時は差す。出がけにちょっと振っている場合、傘を持っていかない。
電車が向こうに着くころには、止んでいるだろうとかなり楽観的というより俺の通り道に雨は降らないという自信もある。
傘を持ち歩くより、濡れるコストの方を少ないと考えてもいる。
それでも傘を持ち歩く、ということは、雨に濡れること自体より雨で濡れている私を見られるという羞恥心、その羞恥心とは、それ自体の見た目に対するというものでもあるが、雨を予見していなかった、と見られることである、を持つためである。
あと、眼鏡というものは、視界に雨を強く顕在化させるものだから、それも余計に羞恥心を掻きたてる訳だ。
つまり、今日も傘を忘れたのだ。わっはっは。

名前考えたよ

土屋アンナの子は澄海(すかい)くんというそうです。僕の父は娘にナターシャと名付けようとしてました。

せっかくなので、僕も名前を考えてみることにしました。

或鳩(アルバート

色売(イロウル

瓜獲(ウリエル

襟苦(エリック)

織麦酒(オリビア

ひとまず、あいうえお考えたけど、頭痛いので、あといくつかで寝ます。

弐夢風呂(ニムバス)

麿者(マルーシャ)

御悲後(オフィーリア)

軽阿(カルーア

樽道(タルルート)

気に入ったのがあれば使ってもいいけど、ご一報くださいね><

ありふれた感謝

感謝。ま、ほとんどは人かな。感謝を人に表現したくてたまらないんだけど、ただ表現するってのもたいてい迷惑だから、かわりになにかに感謝する。なにかってのは、すべてに感謝したい俺にとって、ひとまとまりの代替となるものだから、。。って言ってもいいのかもね。たまに、すべてを恨んでる感じになっちゃうけど、そういう時って迷惑かけたいわけだから、具体的な行動として顕在化しやすいんだろうね。でも感謝も恨みも本当は、対象を感じてないような気もするなあ。
感謝を受け止めてくれる身近な存在って重要だな。おおJesusって言うのもあれだから、俺は変わりに大声を出したいな。そのためにがんばって防音室をつくろう。
感謝って万人にアプリオリだと思いたいな。アプリオリよく分かってないけどね。感謝。

年齢が若い方が多感なのか

ストレッサーは年齢に関わらずで、あんまり変わらなくて、というかむしろ年齢重ねた方が増えているんだけど、そのストレスを顕在化したり、させたりってのを多感だと言ってるのに過ぎないよね。

身体操法とか

友人が、肩甲骨周りの筋肉がくっついちゃって気持ち悪いとストレッチをしていて、なんか大変そうだった。極論すると、下手に身体について知らないほうが、身体に対するスルー力が高いほうが長生きできそうだと思った。